カルテット
2017.03.24
上岡です。
先日とうとう終わってしまいましたね。TBSドラマの『カルテット』。
とコアなファンを装いながら、実は会員さんから「今クールで一番面白いドラマ」と教わり慌てて8話から見始め、そこから遡って全話鑑賞した分際です…はい。
ぶったぎって内容を説明するならば、松たか子さん、満島ひかりさん、松田龍平さん、高橋一生さんという素敵な役者さんたちが、音楽奏者となりカルテットする物語です。
メタファーの1つとして、4人が結成した楽団名にもなっている「ドーナツ」があります。ドラマ内でも語られますが、ドーナツは「欠けている人たちの集まり」を指しています。
どんな物語でも、展開するために、登場人物のドーナツの穴(欠けているもの:過去の失敗)に焦点を当てます。
『カルテット』でも、主要な登場人物全員が秘めた過去を持っています。
物語とは、その欠けている部分をどう埋めていくかが目的となると思いがちですが、実は違いますよね。
物語とは、「欠けている部分を埋める(無くす)」ではなく「欠けている部分をもつ自分をどう受け止めるか」ですね。そしてそのきっかけは、予期せぬ出来事によってもたらされるのも、これまた物語の条件です。
『カルテット』の登場人物たちも強制的に自分の過去に向き合わされ、そしてその穴を埋めはしません。「欠けている自分」と向き合い、そうすることで、「欠いたままの相手」を一層、受け入れていきます。誰だって欠いたものはあり、その全てを償えるわけではありません。そのぶん、他の誰かの穴を埋めていくものだと思います。
ドーナツの穴を埋めず、ドーナツはドーナツのまま。それが1箱に4つ並んでいる香ばしい光景。
この高揚感。
最終話は「それでも生きてく」という決意表明のようなコンサート場面、そしてエンディングのドライブは本当に素敵でした。
昨年公開された『グランドフィナーレ』という洋画があります。
指揮者、スポーツ選手、俳優、映画監督など様々な立場の人たちが休暇を目的に、自然に囲まれたホテルで過ごす数日間を描いています。
印象的な場面があります。
出会った多くの人に「見てました!ファンなんです!」と握手を求められる俳優がいるのですが、ファンの語るその俳優の思い出は、最近の作品の話ではなく、昔ヒットした子ども番組の当たり役の話ばかり。彼はそれを悩み、そして一皮剥けたいと強く思っています。
そんな中、ある雑貨屋で少女が静かに彼に近づいてきます。「ファンなんです」と。
彼は「あぁ、いつもの例の役についてだね」と問うと、少女は、彼でさえ忘れそうだった遠い昔の映画のワンシーンの台詞を話し出します。
「あなたがダメな父親役を演じていて、何年もの間会っていなかった自分の子どもに『何故、僕を捨てたの?』と聞かれるの。あなたは『俺は父親になる自信がなかったんだ』と答えたの。それを場面を見たとき、大人だった自信がないんだから誰だって自信なんてないんだ、とわかって、とっても楽になったの」。俳優が外に向けて言い放った台詞が、少女によって、自らに帰って来たのです。
俳優は、その後、自分を受け入れる行動に出ます。その他の宿泊者も、自分なりに今の自分(欠けているドーナツ)を受け入れていきます。
欠けることのない「理想の自分」をもつことは、自家発電をフル回転させ、自分をまだ見ぬ自分に変えるモチベーションとなります。
でも、その「理想の自分」への思い入れが強くなりすぎると、そのうち「理想の自分」が「今の自分」を攻撃してきます。
「まだそんなもんか」「まだ何もできていないのか」「何やってんだ、お前」
物語において、主人公そっくりのキャラクターが現れると、大概それは最大の敵となります。特徴が似ているとうことは弱点も似ており、つまり、お互いに相手の弱点を熟知しており、その弱い所に向けてキツイ攻撃をしかけきます。刺さる言葉を浴びせてきます。最大の敵は自分自身と言うことなんでしょうね。
だから、「理想の自分」を「今の自分」が夢見ながらも、「自分なりに進むことを応援してくれる自分」の存在を感じていなければいけません。その姿は、オリンピックの観客席でみられるような、ねじり鉢巻きではっぴ着て、鳴り物を片手に大声を出して応援している自分かもしれませんし、柱から顔半分だけ出してサングラス越しに遠くから見守ってくれる、紫のバラの束をいつも届けてくれる自分からもしれませんし、公園の芝生の上でクローバーを口にくわえて仰向けで寝ころんで鼻の頭にトンボがとまりながら、なんでも笑ってくれる自分かもしれません。
「周囲が自分をどう扱うか」から「自分がどうこの社会と関わるか」になることが物語ですね。
で、物語は日常に転がっています。
素敵なドラマでした。
上岡
先日とうとう終わってしまいましたね。TBSドラマの『カルテット』。
とコアなファンを装いながら、実は会員さんから「今クールで一番面白いドラマ」と教わり慌てて8話から見始め、そこから遡って全話鑑賞した分際です…はい。
ぶったぎって内容を説明するならば、松たか子さん、満島ひかりさん、松田龍平さん、高橋一生さんという素敵な役者さんたちが、音楽奏者となりカルテットする物語です。
メタファーの1つとして、4人が結成した楽団名にもなっている「ドーナツ」があります。ドラマ内でも語られますが、ドーナツは「欠けている人たちの集まり」を指しています。
どんな物語でも、展開するために、登場人物のドーナツの穴(欠けているもの:過去の失敗)に焦点を当てます。
『カルテット』でも、主要な登場人物全員が秘めた過去を持っています。
物語とは、その欠けている部分をどう埋めていくかが目的となると思いがちですが、実は違いますよね。
物語とは、「欠けている部分を埋める(無くす)」ではなく「欠けている部分をもつ自分をどう受け止めるか」ですね。そしてそのきっかけは、予期せぬ出来事によってもたらされるのも、これまた物語の条件です。
『カルテット』の登場人物たちも強制的に自分の過去に向き合わされ、そしてその穴を埋めはしません。「欠けている自分」と向き合い、そうすることで、「欠いたままの相手」を一層、受け入れていきます。誰だって欠いたものはあり、その全てを償えるわけではありません。そのぶん、他の誰かの穴を埋めていくものだと思います。
ドーナツの穴を埋めず、ドーナツはドーナツのまま。それが1箱に4つ並んでいる香ばしい光景。
この高揚感。
最終話は「それでも生きてく」という決意表明のようなコンサート場面、そしてエンディングのドライブは本当に素敵でした。
昨年公開された『グランドフィナーレ』という洋画があります。
指揮者、スポーツ選手、俳優、映画監督など様々な立場の人たちが休暇を目的に、自然に囲まれたホテルで過ごす数日間を描いています。
印象的な場面があります。
出会った多くの人に「見てました!ファンなんです!」と握手を求められる俳優がいるのですが、ファンの語るその俳優の思い出は、最近の作品の話ではなく、昔ヒットした子ども番組の当たり役の話ばかり。彼はそれを悩み、そして一皮剥けたいと強く思っています。
そんな中、ある雑貨屋で少女が静かに彼に近づいてきます。「ファンなんです」と。
彼は「あぁ、いつもの例の役についてだね」と問うと、少女は、彼でさえ忘れそうだった遠い昔の映画のワンシーンの台詞を話し出します。
「あなたがダメな父親役を演じていて、何年もの間会っていなかった自分の子どもに『何故、僕を捨てたの?』と聞かれるの。あなたは『俺は父親になる自信がなかったんだ』と答えたの。それを場面を見たとき、大人だった自信がないんだから誰だって自信なんてないんだ、とわかって、とっても楽になったの」。俳優が外に向けて言い放った台詞が、少女によって、自らに帰って来たのです。
俳優は、その後、自分を受け入れる行動に出ます。その他の宿泊者も、自分なりに今の自分(欠けているドーナツ)を受け入れていきます。
欠けることのない「理想の自分」をもつことは、自家発電をフル回転させ、自分をまだ見ぬ自分に変えるモチベーションとなります。
でも、その「理想の自分」への思い入れが強くなりすぎると、そのうち「理想の自分」が「今の自分」を攻撃してきます。
「まだそんなもんか」「まだ何もできていないのか」「何やってんだ、お前」
物語において、主人公そっくりのキャラクターが現れると、大概それは最大の敵となります。特徴が似ているとうことは弱点も似ており、つまり、お互いに相手の弱点を熟知しており、その弱い所に向けてキツイ攻撃をしかけきます。刺さる言葉を浴びせてきます。最大の敵は自分自身と言うことなんでしょうね。
だから、「理想の自分」を「今の自分」が夢見ながらも、「自分なりに進むことを応援してくれる自分」の存在を感じていなければいけません。その姿は、オリンピックの観客席でみられるような、ねじり鉢巻きではっぴ着て、鳴り物を片手に大声を出して応援している自分かもしれませんし、柱から顔半分だけ出してサングラス越しに遠くから見守ってくれる、紫のバラの束をいつも届けてくれる自分からもしれませんし、公園の芝生の上でクローバーを口にくわえて仰向けで寝ころんで鼻の頭にトンボがとまりながら、なんでも笑ってくれる自分かもしれません。
「周囲が自分をどう扱うか」から「自分がどうこの社会と関わるか」になることが物語ですね。
で、物語は日常に転がっています。
素敵なドラマでした。
上岡