「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」に行ってきました。
2014.07.27
「知ってる知ってる。歌手のビョークが出ている映画でしょ?」
「それは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』!」
って、つっこみを散々やってきました。
どうも。上岡です。
「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」とは、
パソコンで検索すればすぐ出てきますが、30か国で開催されている、真っ暗の中、集団で1時間近く過ごすイベントの名称です。
真っ暗というのは、夜、部屋で電気を消したレベルではありません。本当の真っ暗です。
その空間で、お食事したり、部屋を探索したりして過ごすのですが、なにが起きるかと言うと、視覚以外の感覚が敏感になります。
「コーヒーってこんなに強い香りだったのかぁ」など。
また、1チーム最大8名で行動するので、互いにぶつかったりすることを防ぐために、自分のする行動を全て言葉にして伝え合う必要がでてきます。「ゆーじ、しゃがみまーす」「ゆーじ、立ちまーす」「ゆーじ、歩き出しまーす」と言う具合に。
互いに言葉でのコミュニケーションが盛んになります。
このイベント、企業の社員研修に使われることがあるようで、暗闇の中で2時間ほど会議をするのだそうです。
多分、「あれ」「これ」の代名詞では伝わらないので、相手に明確に伝えるために、言葉が丁寧になるのでしょう。
また、会議中にお茶がふるまわれれば、素振りだけでは伝わらないので、「ありがとう」という言葉が飛び交うのでしょう。
相手に伝えたいことは相手に伝わるように伝えないと伝わらないわけで、視覚情報が遮断されることで、伝えあう言霊の大切さを経験するのだと思います。
「言ってくれなきゃ、わかんないわよ!」若かりしき私が言われた、突き刺さった一言です。
「悪いと思ってないのに、謝らないでよ!」これも突き刺さった一言ですが、今回のテーマとは関係ありません。
思い起こせば、的確な言葉の凄さを経験したのは私が大学生1年生の時でした。
念願の一人暮らしを始めたのはいいものの、洗濯やら、掃除やら、生活費の管理やら、自分でやらなければいけないことの多さに困惑してしまい、当初は炊事は避けて、ほぼ学食ですませていた。ようやく慣れてきた3か月目、ふと「カレーを作ろうかな」と思いたちました。
早速、スーパーに行き、カレーのルーを手にし、裏面の「材料」に記入されてある野菜やお肉を購入し、食材をいっぱい入れた袋をカゴに入れた自転車で自宅へ戻る誇らしげな自分の姿は、なぜか、第三者目線の映像で覚えています。
アパートに戻り、いざ取り掛かろうとしましたが、ルーの裏面の「作り方」の説明って、あまりにもざっくりで。たくさんの食材を前に虚無感に襲われるわけです。
困った時は親です。
さっそく、遠く離れた母親に遠距離電話をかけ、状況を説明すると、「よし、わかった」と、非常に明確に食材1つ1つの取り扱い方を説明してくれました。
「野菜を切り終わったら、また電話ちょうだい」「ニンジンに箸が通るようぐらい煮込めたら、また電話ちょうだい」
そんな電話のラリーが続き、ようやく人生初のカレーが完成しました。
実家の味がしました。美味しかったです。
隠し味も含め、母ちゃんの指示通りに作ってるのですから、そりゃそうなのですが、実家の味が再現されたことに驚いたのです。
すっごく大事な場面で、「言葉では伝えられないなぁ」と思うことはあります。伝えたい相手と真剣に向き合う場面です。恋したり、愛したり、そんなとき、言葉のニュアンスに敏感にならざるを得ず、「うー」と布団に顔をうずめることもあります。
でも、この世の多くのことは、今よりも少しだけ、相手を尊重すれば誤解なく伝えられると思うのです。
「それは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』!」
って、つっこみを散々やってきました。
どうも。上岡です。
「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」とは、
パソコンで検索すればすぐ出てきますが、30か国で開催されている、真っ暗の中、集団で1時間近く過ごすイベントの名称です。
真っ暗というのは、夜、部屋で電気を消したレベルではありません。本当の真っ暗です。
その空間で、お食事したり、部屋を探索したりして過ごすのですが、なにが起きるかと言うと、視覚以外の感覚が敏感になります。
「コーヒーってこんなに強い香りだったのかぁ」など。
また、1チーム最大8名で行動するので、互いにぶつかったりすることを防ぐために、自分のする行動を全て言葉にして伝え合う必要がでてきます。「ゆーじ、しゃがみまーす」「ゆーじ、立ちまーす」「ゆーじ、歩き出しまーす」と言う具合に。
互いに言葉でのコミュニケーションが盛んになります。
このイベント、企業の社員研修に使われることがあるようで、暗闇の中で2時間ほど会議をするのだそうです。
多分、「あれ」「これ」の代名詞では伝わらないので、相手に明確に伝えるために、言葉が丁寧になるのでしょう。
また、会議中にお茶がふるまわれれば、素振りだけでは伝わらないので、「ありがとう」という言葉が飛び交うのでしょう。
相手に伝えたいことは相手に伝わるように伝えないと伝わらないわけで、視覚情報が遮断されることで、伝えあう言霊の大切さを経験するのだと思います。
「言ってくれなきゃ、わかんないわよ!」若かりしき私が言われた、突き刺さった一言です。
「悪いと思ってないのに、謝らないでよ!」これも突き刺さった一言ですが、今回のテーマとは関係ありません。
思い起こせば、的確な言葉の凄さを経験したのは私が大学生1年生の時でした。
念願の一人暮らしを始めたのはいいものの、洗濯やら、掃除やら、生活費の管理やら、自分でやらなければいけないことの多さに困惑してしまい、当初は炊事は避けて、ほぼ学食ですませていた。ようやく慣れてきた3か月目、ふと「カレーを作ろうかな」と思いたちました。
早速、スーパーに行き、カレーのルーを手にし、裏面の「材料」に記入されてある野菜やお肉を購入し、食材をいっぱい入れた袋をカゴに入れた自転車で自宅へ戻る誇らしげな自分の姿は、なぜか、第三者目線の映像で覚えています。
アパートに戻り、いざ取り掛かろうとしましたが、ルーの裏面の「作り方」の説明って、あまりにもざっくりで。たくさんの食材を前に虚無感に襲われるわけです。
困った時は親です。
さっそく、遠く離れた母親に遠距離電話をかけ、状況を説明すると、「よし、わかった」と、非常に明確に食材1つ1つの取り扱い方を説明してくれました。
「野菜を切り終わったら、また電話ちょうだい」「ニンジンに箸が通るようぐらい煮込めたら、また電話ちょうだい」
そんな電話のラリーが続き、ようやく人生初のカレーが完成しました。
実家の味がしました。美味しかったです。
隠し味も含め、母ちゃんの指示通りに作ってるのですから、そりゃそうなのですが、実家の味が再現されたことに驚いたのです。
すっごく大事な場面で、「言葉では伝えられないなぁ」と思うことはあります。伝えたい相手と真剣に向き合う場面です。恋したり、愛したり、そんなとき、言葉のニュアンスに敏感にならざるを得ず、「うー」と布団に顔をうずめることもあります。
でも、この世の多くのことは、今よりも少しだけ、相手を尊重すれば誤解なく伝えられると思うのです。