愛情…この脆くて曖昧なもの。
2018.08.11
皆様こんにちは、成田です。
長崎保育士会からお招き頂きました。
2年くらい前に伺った時に、時間がなくて行けなかった市内各所を今回は訪れる事ができました。
原爆資料館。
らせんのスロープを下る壁に、年号が書かれています。
歴史を遡っていく感覚の中で、資料館に到着する前に、すでに忘れてはいけない歴史の沈痛な記憶の世界に浸っていました。
たくさんの資料を前に、いかに人はambiguousでfragileな生き物か、を再認識させられました。
そして、私は再会しました。
永井隆博士の著書「この子を残して」と。
今を遡ること40年以上前に、父が薦めてくれた本。
自ら放射線科医師として研究を続けるうちに白血病を発症し、余命3年と言われた矢先に原爆投下。
妻は一瞬に骨となり、自らも被爆し、幼ない子ども二人を残して逝くことへの無念を綴る、文字通り血を吐くような文章。
当時はその切なすぎる運命に涙しましたが、再読して新たな感慨がありました。
それは、先日「夜と霧」を再読したときに感じたものと同じです。
人間の犯す過ちに自らの運命を翻弄されながら、でも永井先生は科学者としての目で事態を俯瞰的に見つめ、自分の家族だけではない、回りの苦しむ人々に自分が科学者としてできることを、あくなき探求心と論理思考で、最後まで続けていたことを、強く今回は感じました。
一方で、クリスチャンである博士の、自分と子どもたちの運命についての悟り、そして神への問いかけが、痛みを持って交錯する文章も、自分も親となった今、部分的なものでしかないでしょうが、理解できる気がします。
子どもの発達に大切だと思うことは?と聞くと多くの人が「愛情」と答えます。
じゃあ、愛情ってなんなの?と、最近よく考えます。
私には、現代の親たちが発する「愛情」という単語の裏に、自分の子ども「だけ」を特別に思い、心をかけ、愛するというややエゴイスティックなニュアンスが感じられてしまいます。
そして、何より私が疑問に思うのは、「愛情」などという抽象的な概念を、さも知り尽くしているかのように振りかざして使う多くの人々の自信の根拠です。
永井博士が死がそこまで迫った病床でなお苦悩し神に問い続けたように、「愛情」の実態など、地球に偶発的に創造された動物種の一つである人間、度々の組織的な過ちを犯す人間になど、わかるはずもないのではないでしょうか?
だから私は信じていたいのです。
親がするべきことは、自分の家族以外の人たちのために懸命に働くことだと。
親がするべきことは、子どもをしっかり眠らせ、食べさせ、体を動かさせる生活を提供することだと。
それが、自分が死に絶えた後、子どもだけになった時の世界が少しでもよくなるための手立てだから。
子どもが一生涯幸せに生きられるための手立てだから。
脆くて曖昧な「愛情」という単語を知った気になり多用する前に、まずは現実的でわかりやすい、そして、科学が裏付けする確固として堅実な生活を確立しましょうよ、と言い続けたいのです。
「愛情」を振りかざして子どもをコントロールしたがり、家族以外の社会や世界に目を向けたがらない、どこか間違ってる気がしてならない現代日本の親たちに、先人たちの書をもう一度立ち返って読んでもらいたい、そして本気で考えて行動してほしい、と強く思った長崎の旅でした。
成田 奈緒子
長崎保育士会からお招き頂きました。
2年くらい前に伺った時に、時間がなくて行けなかった市内各所を今回は訪れる事ができました。
原爆資料館。
らせんのスロープを下る壁に、年号が書かれています。
歴史を遡っていく感覚の中で、資料館に到着する前に、すでに忘れてはいけない歴史の沈痛な記憶の世界に浸っていました。
たくさんの資料を前に、いかに人はambiguousでfragileな生き物か、を再認識させられました。
そして、私は再会しました。
永井隆博士の著書「この子を残して」と。
今を遡ること40年以上前に、父が薦めてくれた本。
自ら放射線科医師として研究を続けるうちに白血病を発症し、余命3年と言われた矢先に原爆投下。
妻は一瞬に骨となり、自らも被爆し、幼ない子ども二人を残して逝くことへの無念を綴る、文字通り血を吐くような文章。
当時はその切なすぎる運命に涙しましたが、再読して新たな感慨がありました。
それは、先日「夜と霧」を再読したときに感じたものと同じです。
人間の犯す過ちに自らの運命を翻弄されながら、でも永井先生は科学者としての目で事態を俯瞰的に見つめ、自分の家族だけではない、回りの苦しむ人々に自分が科学者としてできることを、あくなき探求心と論理思考で、最後まで続けていたことを、強く今回は感じました。
一方で、クリスチャンである博士の、自分と子どもたちの運命についての悟り、そして神への問いかけが、痛みを持って交錯する文章も、自分も親となった今、部分的なものでしかないでしょうが、理解できる気がします。
子どもの発達に大切だと思うことは?と聞くと多くの人が「愛情」と答えます。
じゃあ、愛情ってなんなの?と、最近よく考えます。
私には、現代の親たちが発する「愛情」という単語の裏に、自分の子ども「だけ」を特別に思い、心をかけ、愛するというややエゴイスティックなニュアンスが感じられてしまいます。
そして、何より私が疑問に思うのは、「愛情」などという抽象的な概念を、さも知り尽くしているかのように振りかざして使う多くの人々の自信の根拠です。
永井博士が死がそこまで迫った病床でなお苦悩し神に問い続けたように、「愛情」の実態など、地球に偶発的に創造された動物種の一つである人間、度々の組織的な過ちを犯す人間になど、わかるはずもないのではないでしょうか?
だから私は信じていたいのです。
親がするべきことは、自分の家族以外の人たちのために懸命に働くことだと。
親がするべきことは、子どもをしっかり眠らせ、食べさせ、体を動かさせる生活を提供することだと。
それが、自分が死に絶えた後、子どもだけになった時の世界が少しでもよくなるための手立てだから。
子どもが一生涯幸せに生きられるための手立てだから。
脆くて曖昧な「愛情」という単語を知った気になり多用する前に、まずは現実的でわかりやすい、そして、科学が裏付けする確固として堅実な生活を確立しましょうよ、と言い続けたいのです。
「愛情」を振りかざして子どもをコントロールしたがり、家族以外の社会や世界に目を向けたがらない、どこか間違ってる気がしてならない現代日本の親たちに、先人たちの書をもう一度立ち返って読んでもらいたい、そして本気で考えて行動してほしい、と強く思った長崎の旅でした。
成田 奈緒子