「子どもが好き」考
2020.11.30
皆さんこんにちは、成田です。
以前のブログにも書いたことがあるのですが、私は昔から、誰かの「子どもが好き」とか「子どもってかわいい♡」とかいう発言を聞くとどうにも耐え難い、いや~な気持ちになる性質があるのです。
特に、子どもにかかわる職業の人がその職に就く動機として「子どもが大好きだからなりたいと思いました!」などと笑顔満載で言っているのを見るのがとても嫌です。
で、なんでこんなに嫌な気持ちになるのかを折々考えてきたのですが、やっと最近本当にわかった気がします。
この発言って、とても主観的であり差別的だからなんです。
つまり、この言葉の裏には「子どもはかわいいもの」「子どもは大人に好かれるもの」という強い決めつけがあるのですが、その基準が発言者の理想に基づいてる「超主観的」である点がNGなんです。
だから、こういう風に言っている人が、自分の「かわいい」の基準にあてはまらない子を見たときに「違う!!こんなはずじゃない!」と強く否定的になる危険をはらんでいるのです。
実際、教員から関わっている児童生徒のご紹介のお手紙をいただいたりすることがあるのですが、「私がこんなに真剣にかかわっているのにひどい発言をされて心が折れる」などと訴えてきたり、「こんな態度では将来社会に出られない人間になると思うのです」「目つきも怖いし笑顔もなくて全くかわいいと思えない」などと断言していたりします。
また、親御さんも往々にしてこの「自分の理想に合わない子どもはかわいくない」理論を強く主張します。
子どもはみんな笑顔で親の言うことを聞いて親の喜ぶ行動をするべきだし、そういう子がかわいい子よね、そういう子を私は大好き、と思い込んでいる親のもとでは、そうなれない子は「かわいくない子」「ダメな子」のレッテルを貼られて「療育」「虐待」「支援」などを強制されてストレスをためるし、ちょっと小賢しい子であれば幼児期から自分を押し殺して「親の理想通りにふるまう子」になって過干渉の餌食となりストレスをためる。
あなたの「子どもはかわいい」「子どもが好き」って何?と、あまのじゃくな私はすべての「自称子ども好き」に問いかけたいです。
正直、私は自身の子どもを含め、かかわった子どもたちすべてに対して「面白い」「すごい」「やるじゃんこいつ」と思うことは多々あっても、「かわいい♡」という気持ちになったことはほとんどないです。
なぜかというと、「かわいい」は極めて主観的な概念であると同時に、そこには具体的な理由付けができないから自分にしっくりこないからです。
例えば目が大きい人をかわいい、と定義して、さらにその目の大きさが具体的に黒目の直径が何㎜以上なら「かわいい」としよう!と決めたとしたなら私にも理解できるし、それを相手の子どもに伝えることができると思います。でも現実には、「かわいい」は話者の主観でのみ決まるので、言われた子どもにも理解できないし、もちろん言われない子どもにもなぜ言われないのかが具体的に理解できない。
こう考えると「キティちゃんてかわいい!」というのとは違って、目の前にいる生きた人間である子どもに向かって「かわいい」と思ったり言ったりすることは大変に大人の責任を伴うことであることがわかると思います。「好き」も同様です。
一方、面白い・すごい・やるじゃんには例えば「こんな小さいのにこのパズル解きよった!」「え~、ちゃんとほかの子におもちゃを譲れた!」とかいう割合はっきりとした具体的価値観、論理的根拠が伴います。
だから子ども自身にもそのまま伝えることが可能になります。
たぶん、だからこそ私は人々が気軽に口に出す「子どもが好き」「子どもってかわいい」が嫌いなんだと思うのです。
そして実は、子どもはこういう大人を本能的に見分けます。アクシスこどもの日を楽しいと思ってくれる子どもたちはそういう子たちなのではないかと思ってます。
ちなみに、一応名誉のために言っておきますが(笑)、私に他の人間に対する主観的感情が全くないかというとそういうわけでは決してありません。子ども限定ではなく大人でも通りかかりの人でもアクシスの会員さんでも、ある瞬間に遭遇してこの人って「愛おしい」とか「大切だ」という感情を持つことはしばしばあります。
そのたからものを心の中に持ち続けているからこそ、その人の全く愛おしくない行動を別の日に見た時にも、私はその人を許容できたり理解しようと努力することができるのだと思います。
成田 奈緒子
以前のブログにも書いたことがあるのですが、私は昔から、誰かの「子どもが好き」とか「子どもってかわいい♡」とかいう発言を聞くとどうにも耐え難い、いや~な気持ちになる性質があるのです。
特に、子どもにかかわる職業の人がその職に就く動機として「子どもが大好きだからなりたいと思いました!」などと笑顔満載で言っているのを見るのがとても嫌です。
で、なんでこんなに嫌な気持ちになるのかを折々考えてきたのですが、やっと最近本当にわかった気がします。
この発言って、とても主観的であり差別的だからなんです。
つまり、この言葉の裏には「子どもはかわいいもの」「子どもは大人に好かれるもの」という強い決めつけがあるのですが、その基準が発言者の理想に基づいてる「超主観的」である点がNGなんです。
だから、こういう風に言っている人が、自分の「かわいい」の基準にあてはまらない子を見たときに「違う!!こんなはずじゃない!」と強く否定的になる危険をはらんでいるのです。
実際、教員から関わっている児童生徒のご紹介のお手紙をいただいたりすることがあるのですが、「私がこんなに真剣にかかわっているのにひどい発言をされて心が折れる」などと訴えてきたり、「こんな態度では将来社会に出られない人間になると思うのです」「目つきも怖いし笑顔もなくて全くかわいいと思えない」などと断言していたりします。
また、親御さんも往々にしてこの「自分の理想に合わない子どもはかわいくない」理論を強く主張します。
子どもはみんな笑顔で親の言うことを聞いて親の喜ぶ行動をするべきだし、そういう子がかわいい子よね、そういう子を私は大好き、と思い込んでいる親のもとでは、そうなれない子は「かわいくない子」「ダメな子」のレッテルを貼られて「療育」「虐待」「支援」などを強制されてストレスをためるし、ちょっと小賢しい子であれば幼児期から自分を押し殺して「親の理想通りにふるまう子」になって過干渉の餌食となりストレスをためる。
あなたの「子どもはかわいい」「子どもが好き」って何?と、あまのじゃくな私はすべての「自称子ども好き」に問いかけたいです。
正直、私は自身の子どもを含め、かかわった子どもたちすべてに対して「面白い」「すごい」「やるじゃんこいつ」と思うことは多々あっても、「かわいい♡」という気持ちになったことはほとんどないです。
なぜかというと、「かわいい」は極めて主観的な概念であると同時に、そこには具体的な理由付けができないから自分にしっくりこないからです。
例えば目が大きい人をかわいい、と定義して、さらにその目の大きさが具体的に黒目の直径が何㎜以上なら「かわいい」としよう!と決めたとしたなら私にも理解できるし、それを相手の子どもに伝えることができると思います。でも現実には、「かわいい」は話者の主観でのみ決まるので、言われた子どもにも理解できないし、もちろん言われない子どもにもなぜ言われないのかが具体的に理解できない。
こう考えると「キティちゃんてかわいい!」というのとは違って、目の前にいる生きた人間である子どもに向かって「かわいい」と思ったり言ったりすることは大変に大人の責任を伴うことであることがわかると思います。「好き」も同様です。
一方、面白い・すごい・やるじゃんには例えば「こんな小さいのにこのパズル解きよった!」「え~、ちゃんとほかの子におもちゃを譲れた!」とかいう割合はっきりとした具体的価値観、論理的根拠が伴います。
だから子ども自身にもそのまま伝えることが可能になります。
たぶん、だからこそ私は人々が気軽に口に出す「子どもが好き」「子どもってかわいい」が嫌いなんだと思うのです。
そして実は、子どもはこういう大人を本能的に見分けます。アクシスこどもの日を楽しいと思ってくれる子どもたちはそういう子たちなのではないかと思ってます。
ちなみに、一応名誉のために言っておきますが(笑)、私に他の人間に対する主観的感情が全くないかというとそういうわけでは決してありません。子ども限定ではなく大人でも通りかかりの人でもアクシスの会員さんでも、ある瞬間に遭遇してこの人って「愛おしい」とか「大切だ」という感情を持つことはしばしばあります。
ただ、それらは私の心のうちに大切にしまっておくたからものであり、当人にも周りにもみだりには伝えないものだ、というのが私のセオリーなのです。何故ならそれは非常にパーソナルな「私の」出来事、経験であり、かつそれが永続するわけではないと知っているから。
そのたからものを心の中に持ち続けているからこそ、その人の全く愛おしくない行動を別の日に見た時にも、私はその人を許容できたり理解しようと努力することができるのだと思います。
成田 奈緒子