はじまりは、不登校30人の学校に着任したこと
2025.11.14
藤原です。
40年前、私はある中学校に着任した。
子どもたちは、とても素直で、静かな子が多かったが、不登校がとても多かった。
先生方は、子どもたちの自主自律を育てるために、席替えなどを子どもたちの意見を重視して決めていた。
その結果、仲の良い子同士が、座席を近くにすることができた。女子と男子が、教室の中央を境に別れるクラスもあった(左側が女子、右側が男子という具合)。その結果、仲の良い子がいなくなってしまった子は、学校に来づらくなっていったようで、毎月不登校の子が、増えて行った。
私は、座席をどのようにしたら良いかを、放課後にクラスの班長さんたちと話し合って、すべての子たちの様子を考えながら座席を決めていった。私のクラスでは、不登校になる子はいなかった。3学年合わせると30人近くの子が不登校になっていた。
着任して2年目に、中1から不登校になっている中3のお子さんの母親が給食費を払いに来ていた。
その母親に、その場にたまたまいた私は、担任の先生から紹介された。
数日後、その子に会いに行った。とても太っていた。家から出ないで、ずっと家にいるとのこと。
本人に、「高校はどうする?」と聞くと「行きたい」と言う。
「じゃあ、一緒に勉強しようか」と言うことになった。
使われていない用務員室が1階にあり、死角になる校舎の裏側の場所に入り口があった。
A君は、垣根の隙間から走って、誰にも見られないように私のところに来るようになった。
用務員室の畳の部屋で、私の空き時間、二人で勉強するようになった。彼は、他の先生や他の生徒に会うことは、できなかったが、徐々にやる気なっていった(その後、彼は、高校、大学へと進学し公務員になっている)。
彼の変化を知った先生たちは、「こどもはよくなるんですね」と私の対応の仕方に耳を貸すようになった。
その結果、3年後には、その学校の不登校は0になっていた。
その成果が認められ、私は、市の教育相談の指導主事になった。その後、県の教育センターの指導主事になり、現在は、アクシスのスタッフ、取手市のスクールカウンセラースーパーバイザーとして年老いている脳がまだ活動している(睡眠のお陰です)。
藤原
40年前、私はある中学校に着任した。
子どもたちは、とても素直で、静かな子が多かったが、不登校がとても多かった。
先生方は、子どもたちの自主自律を育てるために、席替えなどを子どもたちの意見を重視して決めていた。
その結果、仲の良い子同士が、座席を近くにすることができた。女子と男子が、教室の中央を境に別れるクラスもあった(左側が女子、右側が男子という具合)。その結果、仲の良い子がいなくなってしまった子は、学校に来づらくなっていったようで、毎月不登校の子が、増えて行った。
私は、座席をどのようにしたら良いかを、放課後にクラスの班長さんたちと話し合って、すべての子たちの様子を考えながら座席を決めていった。私のクラスでは、不登校になる子はいなかった。3学年合わせると30人近くの子が不登校になっていた。
着任して2年目に、中1から不登校になっている中3のお子さんの母親が給食費を払いに来ていた。
その母親に、その場にたまたまいた私は、担任の先生から紹介された。
数日後、その子に会いに行った。とても太っていた。家から出ないで、ずっと家にいるとのこと。
本人に、「高校はどうする?」と聞くと「行きたい」と言う。
「じゃあ、一緒に勉強しようか」と言うことになった。
使われていない用務員室が1階にあり、死角になる校舎の裏側の場所に入り口があった。
A君は、垣根の隙間から走って、誰にも見られないように私のところに来るようになった。
用務員室の畳の部屋で、私の空き時間、二人で勉強するようになった。彼は、他の先生や他の生徒に会うことは、できなかったが、徐々にやる気なっていった(その後、彼は、高校、大学へと進学し公務員になっている)。
彼の変化を知った先生たちは、「こどもはよくなるんですね」と私の対応の仕方に耳を貸すようになった。
その結果、3年後には、その学校の不登校は0になっていた。
その成果が認められ、私は、市の教育相談の指導主事になった。その後、県の教育センターの指導主事になり、現在は、アクシスのスタッフ、取手市のスクールカウンセラースーパーバイザーとして年老いている脳がまだ活動している(睡眠のお陰です)。
藤原
