全力で認めること
2020.06.08
皆さんこんにちは。
最近、毎日新聞を読めるようになった成田です。
あ、これは駄洒落(笑)。うちで取ってる新聞は毎日新聞です。
これまでは朝はバタバタ夜はグッタリ土日も仕事なんて日々だったので、まともに新聞も読めなかったのです。
毎日新聞の校閲センター長だった岩佐義樹さんの著書「失礼な日本語」を最近読んで、ネットに無校閲で流れる危うく不確かな言葉の群れの恐ろしさに改めて気づかされました。
その対比として、毎日毎日発行される膨大な文字数の新聞に載っている「きわめて正しい日本語に近い(そんな無数の目で行った校閲を通してでも、間違いや不適切な表現は残ることがあるらしい)言葉」を1日1回でもきちんと目に入れておくことがいかに大切かも身に沁みました。自分もだけど、ネットユーザーのたくさんの人たちにとっても。
正しい言葉を毎日目にしてなじんでいたら、ネット上であっても匿名であっても、誹謗中傷のことばを自分から発することにはきっと抵抗が生じるはずですよね。新聞からはものすごく注意深く、そのような言葉は削除されています。いやあ、新聞、偉大です。
で、昨日読んでた毎日新聞に、劇作家山崎正和氏(私は失礼ながら存じ上げませんでした)の寄稿文が載ってました。「シリーズ疫病と人間」ということで、今回のコロナ感染拡大によって日本社会はどのように動いたかの総説です。
「今回の『新型コロナウイルス性肺炎』の蔓延が教えたことは、現代社会は問題の深刻さが身をもってわかれば、科学の専門家の指導にじつに従順だということであった。指導は多岐多様にわたり、日常生活の細部にまで及んだが、とくに日本人はそれに忠実にしたがった(原文引用)」
そして、諸外国のように強制都市封鎖なく、デモや暴動もおこらず、日本国民は自発的に自らを律し政府の「お願い」のほとんどを行動に表した、とつづき、この理由が日本人の持つ「公徳心」と「同胞愛」に基づくものであると説いてます。「マスクしないで外に出てはいけない」ということをすんなり守れたのは、「歩きタバコだめ」「ゴミは分別を!」というような公共マナーの徹底がここ数十年飛躍的に進化したからだし(公徳心)、「あんなに大変なおもいをしている医療従事者に迷惑をかけたくない!なんか手伝いたい!」と思って家にいることを選んだのは、大震災など災害での互助ボランティアの増加による国民性の変化によるものだ(同胞愛)というわけです。
で、それは1970年代以前には当たり前だった日本人の地域限定互助意識が崩れたからともいえる(知り合い・家族の間だけの義理人情社会からの脱却→不特定の同胞に対する人類愛的なものへ)という論旨になります。
とても面白いし、納得できる話でした。
でも、正直私は、すべての局のテレビのコメンテーターが異口同音に「マスクしないで外に出ようとしているあなた!あなたが誰かを傷つけるんです!絶対にやめてください!」と叫び続けていた毎日が怖かったです。
「昨日は〇人という数字ですが、いつも月曜日は少ないので、全然気を許すことはできません!このままでは、東京が崩壊するのです!」とものすごい形相で伝え続ける知事が怖かったです。
なので、ある時から一切テレビのニュースは見ないことにしました。
医学的知識のある私なので、疾患そのものには一般の方よりは不安も恐怖もないはず。なのになんで?ってよく考えてわかりました。
なんかね、宿題10ページのうち3ページはやったのにそれをお母さんに見られて、「どういうこと?!確かに3ページはやったかもしれないけど、あと7ページも残ってるじゃない!ちゃんとやってしまいなさい!今気を緩めたら、いい学校にも入れなくなるのよ!社会から落ちこぼれるのよ!」って言われてる中学生とおんなじかもって思ったんです。
なぜこの人たちは、「すごい!!3ページもできたじゃん!今までゼロだったもん、進歩進歩。やればできる子なんだろうねえほんとはあんた。まあ、実はまだ7ページ残ってはいるけどね(笑)」って言えないのかしらって思いました。そう、彼らの、不必要に不安と恐怖だけを押し付けてくる言葉選びが、私にはとても不快だったんです。
だから、ひねくれてる私は、山崎さんの説にうなずきつつも「いやもしかして、不安のもともと高い日本人を、政治家・専門家・そしてマスメディア・ソーシャルメディアが、こぞってものすごい量と質の『不安と恐怖に陥れる言葉』を国民に向かって流し続けたから、私たちは完全にすくんで動かなくなった、その結果がこうやって諸外国を凌駕する効果を生んだんじゃないんかい?!」とかも思ったりするわけです。
恐怖と不安で支配するって・・本当にこれでいいのか、と思ったりするわけです。
もっともっと私たちは「全力で認める」をされてもいいのではないかと思ったりするわけです。
まあ、これは私の個人的な繰り言なので聞き流していただいて結構ですが・・
でも、家庭や学校・生活内でのペアレンティング的には、「全力で認める」は必須ですからね!
親子間でも夫婦間でも友人間でも、不安恐怖を与えるよりも「認めあう・喜びあう」を多めに作れる言葉かけをぜひ前頭葉使って繰り出してください。そうすれば周りの人たちはきっと「不安だから」ではなく「自発的に」行動できるようになります。そんな環境を、「不安疲れ」した今、ぜひ作っていきましょう。
成田 奈緒子
最近、毎日新聞を読めるようになった成田です。
あ、これは駄洒落(笑)。うちで取ってる新聞は毎日新聞です。
これまでは朝はバタバタ夜はグッタリ土日も仕事なんて日々だったので、まともに新聞も読めなかったのです。
毎日新聞の校閲センター長だった岩佐義樹さんの著書「失礼な日本語」を最近読んで、ネットに無校閲で流れる危うく不確かな言葉の群れの恐ろしさに改めて気づかされました。
その対比として、毎日毎日発行される膨大な文字数の新聞に載っている「きわめて正しい日本語に近い(そんな無数の目で行った校閲を通してでも、間違いや不適切な表現は残ることがあるらしい)言葉」を1日1回でもきちんと目に入れておくことがいかに大切かも身に沁みました。自分もだけど、ネットユーザーのたくさんの人たちにとっても。
正しい言葉を毎日目にしてなじんでいたら、ネット上であっても匿名であっても、誹謗中傷のことばを自分から発することにはきっと抵抗が生じるはずですよね。新聞からはものすごく注意深く、そのような言葉は削除されています。いやあ、新聞、偉大です。
で、昨日読んでた毎日新聞に、劇作家山崎正和氏(私は失礼ながら存じ上げませんでした)の寄稿文が載ってました。「シリーズ疫病と人間」ということで、今回のコロナ感染拡大によって日本社会はどのように動いたかの総説です。
「今回の『新型コロナウイルス性肺炎』の蔓延が教えたことは、現代社会は問題の深刻さが身をもってわかれば、科学の専門家の指導にじつに従順だということであった。指導は多岐多様にわたり、日常生活の細部にまで及んだが、とくに日本人はそれに忠実にしたがった(原文引用)」
そして、諸外国のように強制都市封鎖なく、デモや暴動もおこらず、日本国民は自発的に自らを律し政府の「お願い」のほとんどを行動に表した、とつづき、この理由が日本人の持つ「公徳心」と「同胞愛」に基づくものであると説いてます。「マスクしないで外に出てはいけない」ということをすんなり守れたのは、「歩きタバコだめ」「ゴミは分別を!」というような公共マナーの徹底がここ数十年飛躍的に進化したからだし(公徳心)、「あんなに大変なおもいをしている医療従事者に迷惑をかけたくない!なんか手伝いたい!」と思って家にいることを選んだのは、大震災など災害での互助ボランティアの増加による国民性の変化によるものだ(同胞愛)というわけです。
で、それは1970年代以前には当たり前だった日本人の地域限定互助意識が崩れたからともいえる(知り合い・家族の間だけの義理人情社会からの脱却→不特定の同胞に対する人類愛的なものへ)という論旨になります。
とても面白いし、納得できる話でした。
でも、正直私は、すべての局のテレビのコメンテーターが異口同音に「マスクしないで外に出ようとしているあなた!あなたが誰かを傷つけるんです!絶対にやめてください!」と叫び続けていた毎日が怖かったです。
「昨日は〇人という数字ですが、いつも月曜日は少ないので、全然気を許すことはできません!このままでは、東京が崩壊するのです!」とものすごい形相で伝え続ける知事が怖かったです。
なので、ある時から一切テレビのニュースは見ないことにしました。
医学的知識のある私なので、疾患そのものには一般の方よりは不安も恐怖もないはず。なのになんで?ってよく考えてわかりました。
なんかね、宿題10ページのうち3ページはやったのにそれをお母さんに見られて、「どういうこと?!確かに3ページはやったかもしれないけど、あと7ページも残ってるじゃない!ちゃんとやってしまいなさい!今気を緩めたら、いい学校にも入れなくなるのよ!社会から落ちこぼれるのよ!」って言われてる中学生とおんなじかもって思ったんです。
なぜこの人たちは、「すごい!!3ページもできたじゃん!今までゼロだったもん、進歩進歩。やればできる子なんだろうねえほんとはあんた。まあ、実はまだ7ページ残ってはいるけどね(笑)」って言えないのかしらって思いました。そう、彼らの、不必要に不安と恐怖だけを押し付けてくる言葉選びが、私にはとても不快だったんです。
だから、ひねくれてる私は、山崎さんの説にうなずきつつも「いやもしかして、不安のもともと高い日本人を、政治家・専門家・そしてマスメディア・ソーシャルメディアが、こぞってものすごい量と質の『不安と恐怖に陥れる言葉』を国民に向かって流し続けたから、私たちは完全にすくんで動かなくなった、その結果がこうやって諸外国を凌駕する効果を生んだんじゃないんかい?!」とかも思ったりするわけです。
恐怖と不安で支配するって・・本当にこれでいいのか、と思ったりするわけです。
もっともっと私たちは「全力で認める」をされてもいいのではないかと思ったりするわけです。
まあ、これは私の個人的な繰り言なので聞き流していただいて結構ですが・・
でも、家庭や学校・生活内でのペアレンティング的には、「全力で認める」は必須ですからね!
親子間でも夫婦間でも友人間でも、不安恐怖を与えるよりも「認めあう・喜びあう」を多めに作れる言葉かけをぜひ前頭葉使って繰り出してください。そうすれば周りの人たちはきっと「不安だから」ではなく「自発的に」行動できるようになります。そんな環境を、「不安疲れ」した今、ぜひ作っていきましょう。
成田 奈緒子