映画の楽しみ方の話
2014.11.29
最近また電車内でトリンドルさんの広告を見る機会が増え「せっかくふっきれてきたのに…また僕に優しくしないでくれ」と感じてる今日この頃です。上岡です。
アクシスでは毎月1回、会員の皆様と映画鑑賞をし、感想を言い合ったり、フリートークしたりの『映画鑑賞付きラウンジ』を行っています。当然、スタッフ間で事前に「次回はなんの映画にする?」の話し合いをするわけで、そうすると自ずと「自分の好きな映画はこれだ」の話になるわけで、そしたら「あの映画のあの場面はこういうことを言いたいのでは?」「うんにゃ、違う!」てなバトルが始まるわけで、そうなると「映画鑑賞付きラウンジ」の日は、朝からスタッフ間でピリピリしたムードが漂うわけで。特に成田と上岡の間に漂うわけで。
さて、映画は監督が伝えたいことを作品の中に散りばめているので、観客はそれらの拾い集め、監督の「言いたいこと」を見つける作業をまずします。国語の文章問題と同じです。だから国語の文章問題と同様に、映画も「監督の言いたいことは何か?」については「正解」「不正解」があります。ただし、映画を「どう感じたか?」という感想は、観た観客だけのものです。
そして「言いたいことはわかったよ」だけで終わる映画ではなく「私はこの映画を見てこう感じたよ」とまでになる映画が、本人にとっての名作になります。
私にとっては大林伸彦監督の『さびしんぼう』がその1つです。
最初に観たのは、「胃腸」という言葉が、「大腸」「小腸」と同様に「腸」の1種類を示す言葉だと思っていた中学生の頃です。「ポルトガル」という国が、すでに滅んだ国だと勘違いしていた中学生の頃です。
『さびしんぼう』は、主人公の高校生の切ない初恋を描いたもので、映画のラストは、主人公が大人になった場面で終わります。そして、大人になった主人公の隣で、主人公の肩に寄り添っている女性は初恋の相手でなく、別の女性でした。
中学生の私には衝撃的でした。
いつもハッピーエンドな「夢は叶う!」てな物語ばかりに囲まれていたので、「どんなに好きでもその人と結ばれるわけではないんだな、夢が叶わないことがあるんだな、それが現実なんだな」という、世界の真理を知るきっかけとなりました。
そして時は流れ、「へー、胃腸って、胃と腸という別々なものをまとめて言ったものなんだー」と気づき、でも相変わらず「ポルトガルはすでに滅んでしまった国」と誤解をしていた、大学生時代の私に『さびしんぼう』を再鑑賞する機会が舞い込みました。
…びっくらしましたがな。
初恋の女性だったんです、ラストシーンで大人になった主人公の隣にいた女性は!映画の中で初恋は実っていたのです!
えー!なんで!
「中学生のお前が見間違えたんだよ」
冷静なもう1人の自分が簡潔に即答してくれましたが無視です。納得いかない。
なんで!なんで!「だからおめーがそのほっそい目で見落とし…」うるさい!なんで!
…10年間、180度違った解釈してました。
大学生になっていた私は現実世界ですでに、初恋に破れた経験を済ませており、その辛さを乗り越えるとき心にあったのは『さびしんぼう』のラストシーンでした。『さびしんぼう』という免疫があったからこそ、その時期『あばれんぼう』にならずに済んだわけです。
どうして中学生の私が、むしろ望まない形のラストに置き換えてしまったのかはわかりません。が、そのラストのように、あの映画を感じたのは事実です。
いろんな思い出も含め、『さびしんぼう』は今でも私にとって、「実らない初恋を描いた名作」映画なのです。
いやぁ、映画って本当に面白いもんですね。
4,5年前『クライマーズハイ』という素敵な映画に出会いました。堤真一さん主演の日航機墜落事故を扱った映画です。
これもラストシーン。
主人公が疎遠であった自分の息子に会いに、子どもの住む家に向かうのですが、その直前で運転してきた車から降り、思いにふけります。そして、主人公の運転する車がその場を走り去っていく場面で終わりました。
「そっか、結局は『息子と会わない』ことを選択したのか。深いなー人生は」と考えていました。
3か月後、大枚はたいて大きなテレビを購入し、「この大画面のTVで『クライマーズハイ』を観たい!」と思い、再鑑賞しました。
ラストシーンでびっくり。
走り去った思われた主人公が乗る車の行き先に、主人公の息子が立っている姿が小さく映っているではありませんか。
前回は、息子の居る場所から去ったように見てましたが、向かっていたのです。息子に会いに行っているわけです!
えーーー!
「前回はちっさいTVだったから、人影が小さくて見つけられなかったんだろう」
これについては、もう1人の自分の言う通りです。納得です。はい。
いやぁ、映画って本当に面白いもんですね。
上岡
アクシスでは毎月1回、会員の皆様と映画鑑賞をし、感想を言い合ったり、フリートークしたりの『映画鑑賞付きラウンジ』を行っています。当然、スタッフ間で事前に「次回はなんの映画にする?」の話し合いをするわけで、そうすると自ずと「自分の好きな映画はこれだ」の話になるわけで、そしたら「あの映画のあの場面はこういうことを言いたいのでは?」「うんにゃ、違う!」てなバトルが始まるわけで、そうなると「映画鑑賞付きラウンジ」の日は、朝からスタッフ間でピリピリしたムードが漂うわけで。特に成田と上岡の間に漂うわけで。
さて、映画は監督が伝えたいことを作品の中に散りばめているので、観客はそれらの拾い集め、監督の「言いたいこと」を見つける作業をまずします。国語の文章問題と同じです。だから国語の文章問題と同様に、映画も「監督の言いたいことは何か?」については「正解」「不正解」があります。ただし、映画を「どう感じたか?」という感想は、観た観客だけのものです。
そして「言いたいことはわかったよ」だけで終わる映画ではなく「私はこの映画を見てこう感じたよ」とまでになる映画が、本人にとっての名作になります。
私にとっては大林伸彦監督の『さびしんぼう』がその1つです。
最初に観たのは、「胃腸」という言葉が、「大腸」「小腸」と同様に「腸」の1種類を示す言葉だと思っていた中学生の頃です。「ポルトガル」という国が、すでに滅んだ国だと勘違いしていた中学生の頃です。
『さびしんぼう』は、主人公の高校生の切ない初恋を描いたもので、映画のラストは、主人公が大人になった場面で終わります。そして、大人になった主人公の隣で、主人公の肩に寄り添っている女性は初恋の相手でなく、別の女性でした。
中学生の私には衝撃的でした。
いつもハッピーエンドな「夢は叶う!」てな物語ばかりに囲まれていたので、「どんなに好きでもその人と結ばれるわけではないんだな、夢が叶わないことがあるんだな、それが現実なんだな」という、世界の真理を知るきっかけとなりました。
そして時は流れ、「へー、胃腸って、胃と腸という別々なものをまとめて言ったものなんだー」と気づき、でも相変わらず「ポルトガルはすでに滅んでしまった国」と誤解をしていた、大学生時代の私に『さびしんぼう』を再鑑賞する機会が舞い込みました。
…びっくらしましたがな。
初恋の女性だったんです、ラストシーンで大人になった主人公の隣にいた女性は!映画の中で初恋は実っていたのです!
えー!なんで!
「中学生のお前が見間違えたんだよ」
冷静なもう1人の自分が簡潔に即答してくれましたが無視です。納得いかない。
なんで!なんで!「だからおめーがそのほっそい目で見落とし…」うるさい!なんで!
…10年間、180度違った解釈してました。
大学生になっていた私は現実世界ですでに、初恋に破れた経験を済ませており、その辛さを乗り越えるとき心にあったのは『さびしんぼう』のラストシーンでした。『さびしんぼう』という免疫があったからこそ、その時期『あばれんぼう』にならずに済んだわけです。
どうして中学生の私が、むしろ望まない形のラストに置き換えてしまったのかはわかりません。が、そのラストのように、あの映画を感じたのは事実です。
いろんな思い出も含め、『さびしんぼう』は今でも私にとって、「実らない初恋を描いた名作」映画なのです。
いやぁ、映画って本当に面白いもんですね。
4,5年前『クライマーズハイ』という素敵な映画に出会いました。堤真一さん主演の日航機墜落事故を扱った映画です。
これもラストシーン。
主人公が疎遠であった自分の息子に会いに、子どもの住む家に向かうのですが、その直前で運転してきた車から降り、思いにふけります。そして、主人公の運転する車がその場を走り去っていく場面で終わりました。
「そっか、結局は『息子と会わない』ことを選択したのか。深いなー人生は」と考えていました。
3か月後、大枚はたいて大きなテレビを購入し、「この大画面のTVで『クライマーズハイ』を観たい!」と思い、再鑑賞しました。
ラストシーンでびっくり。
走り去った思われた主人公が乗る車の行き先に、主人公の息子が立っている姿が小さく映っているではありませんか。
前回は、息子の居る場所から去ったように見てましたが、向かっていたのです。息子に会いに行っているわけです!
えーーー!
「前回はちっさいTVだったから、人影が小さくて見つけられなかったんだろう」
これについては、もう1人の自分の言う通りです。納得です。はい。
いやぁ、映画って本当に面白いもんですね。
上岡